「いてくれるだけでいい人」の理由

職場とか、いろんなチーム・グループの中で、「この人がいてくれると安心」「いてくれるだけでいい」と思える人が稀にいる。本当に、稀に、だが。そういう人と、その他の人々の違いは一体何なのか、とモヤっと不思議に思っていた。若干解明できそうなのが、以下の記事。ここに書かれている要因だけではないと思うが、理由の一部としては納得できる。 「いるだけでチームの雰囲気をよくする人」の口癖4つ。“ど” から始まるあの言葉がかなり使える (以降軽くNSFW画像あり。閲覧注意) 記事では「いるだけでチームの雰囲気をよくする人」の4つの要素を述べている。 「ちょうどよかった」悪い状況にある時でもポジティブに捉える 「ありがとう」を言う時に別途感謝の言葉を添える どの、どのように、どちらか、等「ど」ではじまる質問で相手の話を引き出す 「教えてください」で相手へのリスペクトの気持ちを表す 上記のうち、1.と2.は他の自己啓発系コンテンツでもよく目にする話なので割愛する。まぁ「感謝の言葉を出し惜しみしない」、これは確かに大事だよ、俺も実践してる。相手によるけどね。 3.は、俺はこれは実践する気ないけど、要するに聞き上手になって相手の気分をよくしてやれ、つうことだ。 ハーバード大学の研究論文(2012年)によると、自分の話をしているとき、おいしい食事をするときや収入を得るときと同じように脳の報酬系という部位が活性化したことが、 約300人の脳をfMRIでスキャンした結果からわかったのだそう。私たちが聞き上手な人に好感を抱くのは、「自分の話をするのが好き!」という人間の本能を満たしてくれるからなのかもしれません。 「上手に質問をすれば共感力が上がり、相手に好感を抱かせることができる」につながる、と。俺は「聞き上手ボランティア」をやる気はさらさらないが、興味深いのは先の引用にある「自分の話をするのが好き!という人間の本能」だ。よくいるよな、人の話は全然聞かないで、延々と自分のことを話したがるやつ。(ま、経験上女に多いという傾向は、ある) 俺は今までそういうやつのことを、ただ自己愛が強くて、その自己愛を充足させるために他人に自分話を押売りして聞かせているもんだと思っていた。しかし上記引用で、「自分の話をしているときに脳の報酬系が活性化する」というのを読んで「そうか!」とひらめいた。脳の報酬系とはドーパミンのことである。ドーパミンは快楽を司る神経伝達物質だ。つまり自分のことを話すのは、人類共通の快感だったのだ! まぁ確かに、自分だってそういう面があるのは認めるよ。よく「話を聞いてもらってスッキリした」って言うもんな。何で話すだけでスッキリするのかって、ちゃんと理由があったんだな。しかしこれも度がすぎると聞かされる相手が迷惑だし、みっともないという自覚はある。自分のことを延々と話す人は、その制御が効かなくて、自らの快感原則に従って暴走しているんだろう。プラス自己愛もあるだろうけどね、どっちにしろこの手の人間とは遠い距離を置きたいものである。相手だけ満足して、自分はエネルギー吸い取られるだけだからな… 話が大分脱線した、本来の主旨に戻る。うまい質問の仕方。「ど」で始まる疑問符がキーらしいが、具体的には記事の引用を俺なりにアレンジすると以下のようになる。(仕事関連の想定じゃないとピンと来ないもんで…) キーワード 質問例 What ー>「どう、どんな」 どんな理由でこの仕事を始めたんですか? Who ー>「どの人、どんな人」 どんな人と仕事してみたいですか? When ー>「どんなとき、どのタイミング」 どんなときに達成感を感じますか? Where ー>「どこに、どこで」 どこでその分野を学んだのですか? Why ー>「どうして」 どうしてその製品に人気が集中するんでしょうね? Which ー>「どれ、どっち」 どちらのアイデアが気に入りましたか? How ー>「どうやって、どのように」 どのようにしてその課題を解決したんですか? 自己愛満々野郎の自分話を聞かされるのはゴメンだが、まともな相手とのコミュニケーション手法としては頭の片隅においておこう。 人はだれでも、自分に助言を求めてくる人の見識を高く評価する (We all admire the wisdom of people who come to us for advice.) ー 19世紀のイギリスの作家 アーサー・ヘルプスの言葉 最後の「教えてください」。これは相手を間接的に褒める手法だそうだ。ほぉぉ。 ブリガム・ヤング大学助教授で、組織の対人関係を研究するケイティ・リルエンクイスト氏らは、「助言を求められることは、基本的に嬉しいことだ」と言います。 なぜなら、助言を求める行為には、暗黙に「あなたの考えや価値観を支持している」というメッセージが含まれるから。 「教えてください」とアドバイスを求めることは、相手を立てることと同様の意味をもつのです。 これはわかる気がするな、同じ助言の依頼でも「教えてくれくれ」的に無作法または横暴に聞かれると不愉快でしかないが、リスペクトの気持ちを込めた依頼は、相手の気分をよくすることができる。 そこには「あなたは私が知らない知見/情報を持っていると思う、あなたのその知恵を私に分けて貰えたら非常にうれしい」という、メタメッセージが込められているんだ。そういうメッセージを受け取って悪い気分になる人間は滅多にいない。 まぁ自分今もいろいろ思うことがあってこの記事を書いているわけだが….、まったく関係なく、ふと別の言葉を思い出した。 村上龍の小説「5分後の世界」に登場するミズノ少尉は、「絶対に最悪の事態を想像するな」と言った。俺はミズノ少尉のような器ではない。けど、ミズノ少尉のような存在をリスペクトするし、こういう人物と一緒に仕事ができたら嬉しいし、(それこそ、いてくれるだけでいい)少なくとも自分もミズノ少尉に近づけるように努めたいとは思う。 何か主旨が散逸してしまい、「いてくれるだけでいい人」の理由は解明されていない気がする。まぁ理由は他にもいろいろあるよね、ということで。

November 3, 2021

「ストックホルム症候群」の心理はヒトのデフォルト機能だった

昨年の過去ツイのスレッドでちょっと気になるのを見つけたので、若干手を入れてここにまとめて書いておく。 暴力の加害者に対して被害者が好意を抱く「ストックホルム症候群」と567脳、マスク厨の心理は似てないか?側から見ると、あの人たちは自由や人権を奪われている今の状況を愛しているように見える。 その裏では「認知的不協和の解消」が発生している可能性がある。これは、自分の内部の矛盾に一貫性を持たせようとする機能。「新しい生活様式」だの、自粛しろマスクつけろだの、不自由で不本意な状況を強いられているが、それを受け入れている自分に葛藤が生じているはずなのだ。 だからマナーだの何だの言って正当化している。または無意識に自分を麻痺させている。どちらにしても認知に修正を加えて不協和(矛盾)を解消しようとしているわけで、つまり認知に歪みが発生している。だから苦痛さえ感じなくなっているのではないかと想像する。 それから、「沖縄から貧困がなくならない本当の理由」(樋口耕太郎著)からの引用なのだが、こういった自己防衛の心理も働いているかとも。 人間は激しい痛みを感じると、自分の感覚を鈍らせて自己防衛を図る性質があるが、それは絶望の耐え難い痛みを和らげるために、自分自身に打つ麻酔のようなものだ。 自分に麻酔を打って思考や身体感覚を麻痺させたり、自ら認知を歪ませれば、見かけ上は苦痛が和らぐ。しかし同時に生きる上でのあらゆる喜びもまた、感じることができなくなる。そして本来あるべき自分の自由と権利を、忘却の彼方に押しやっている。それは虚構の世界を生きているだけなのだ。 …と、まぁ当時はこんなことを思いつくままに呟いてみたが、大半の世間のコロナ恐怖脳はここまで複雑な心理の綾などなく、自分で調べたり考察することもなくひたすら垂れ流される情報を鵜呑みにして怖いね怖いねと決まり文句を言ってるだけのように見える、それが世間の掟だから。 もちろん、マスク・アルコール消毒・検温や在宅勤務を強制または半強制されることに疑問を抱くこともない。一切の疑問も抱かずに、受け入れているのだ。昼の外食時に周りから聞こえてくる会話を聞いていると呆れる、それなりに一流と呼ばれる企業に勤めていてある程度の地位についていそうな人たちが、そんな具合なのである。 まぁ何にせよ、認知の歪みが生じていることは確か、40度近い真夏日に病気でもないのにマスクとか異常でしかないよ。 それから「家庭内ストックホルム症候群」という言葉もある。児童虐待やDVを受けている被害者が、自分を虐待・無視などで苦しめる親や配偶者(多くの場合夫)に不満や憎しみを抱きつつも、見捨てられたらどうしようと、過剰な不安や恐怖心が芽生える。そこで無意識の内に親や配偶者が気に入られるように「良い子」「良い妻」を演じてしまう…ということらしい。 いやでもこれって別に、ストックホルム症候群という名称を持ち出すまでもなく、より普遍的な事象だと思うな、人間が暴力・抑圧・嫌がらせに対して自分の心を麻痺させて適応を試みる心理が働くのは、きっと人間のデフォルト機能なんだよ、悲しい機能だけど。 DVの他に大学内の教授と生徒の間に発生する「アカハラ」、職場のパワハラでも同様の状態になるよね、理不尽なハラスメントを受けているのに、それを客観視できない状態にあると、相手に気に入られようとして相手に従い、相手の意に沿うように行動してしまうんだ。 これには2つの要因がある、生き延びるための生存本能と、他者に愛されたい、承認されたいという、ヒトとしての社会的本能。しかしそれで相手がハラスメントを辞めるかと言ったら逆だ、「こいつはいじめれば何でも言うことをきく」と思われてエスカレートするだけだ、全く本質的な解決にはならず、状況が悪化するだけなんだよ。 ここまでの文章は、今年2021年の1月に別のブログに投稿した内容を編集・加筆したものだ。そこに置いておいても塩漬けになるだけだからこっちに持ってきた。文章中に登場するツイは、とうにアカウント削除したので今は存在しない。「家庭内ストックホルム症候群」から先は今回追記したもの。主旨が途中からずれている気がするが、まぁ気にしない。 Twitterなんか最低のクソメディアだと思うが、ふと思いついて書いたことでも後でこうして振り返って考察することもあるから、そういう意味では少しはやる価値あったかな。 結局何が言いたいのかってね、多くの人間は、ハラスメントを受けている最中は、状況を客観視できないんだよ、かつ、生存本能と社会的本能のためにその状況に適応しようとして、自分を押し殺してハラスメントをする相手や周囲に従ったり、意に沿わない行動をとったりしがちなんだ。これは自覚しないといけないし、あらゆるハラスメントには声をあげ、全力で抵抗しなけりゃいけないんだ、それこそ、羊や奴隷ではなく、主権を持った人間として生きるために。 過去記事にも書いたDylan Thomasの詩の一部。本来の詩の主旨は違うけど、今のこの世界に対して、全く同じことを言いたいね。 Do not go gentle into that good night, Rage, rage against the dying of the light. あぁまったく、俺はやっぱりこのまま死ぬわけにはいかねぇ、大人しく従ってちゃダメなんだ、激怒して、憤怒して、死にもの狂いで抵抗しなくちゃいけないんだ。

October 30, 2021